2022-08-19 仏語版と日本語版の間にある違和感と、表面的な現代について
9/4追記:
以下に書いたことを、フランス語で再度読み終えたあとに考えたのだけれど少し違っていたかも。
日本語訳に対する違和感のようなものはもちろんあるのだけれど、やはりこれはただ私の体験、私がどう読んだかということとのズレであって、訳者の方を批評するような書き方になっているのは違うことだったような気がしている。
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(メモ、と思ったけどこれ以上時間をかけてまとめるのが無理になったのでなぐり書き。ところどころ相手を尊重しない書き方をしているかも…すみません)
フランス語で『悪童日記』を読んだがそのあとに日本語で読み返したところ大きな違和感があった。 日本語版で読んだときに感銘を受けて記憶に残っていたからこそフランス語でも読んでみたかったはずなのに…という驚きがあった。
タイトル解説
これはフランス語の題名を知らないとわからないことだったけれど、タイトルの『Grand Cahier』は双子が読み書きの練習をする時に使うノート(Cahier)からきている。学校に行くかわりとして読み書きをする、という以上の意味のある行為で、見たものをただそのまま描写するということがそのエクササイズでは要求される。
主観の混じった感想や曖昧な書き方、余計な装飾はふるい落とされ、客観的事実のみで自分が見た世界を描写する。
つまり双子が記したノートがこの本である、というわけなのだけれど、これは日本語の題名『悪童日記』からはすぐには考えられないことだった(私の読み方が浅いのかもしれないけれど)。
この題名にしたことにもちょっと疑問が湧く…が、直訳だったりシンプルに「雑記帳」みたいなものだったら作品のタイトルになりづらいのだから仕方がないか…
違和感
「おばあちゃん」に代表される細かな言葉遣い
「〜してくれた」など、関係の間になにか粘度がある
アゴタ・クリストフの文章はほとんどが直接法で、とても簡潔な文法で書かれていて、多分フランス語を勉强して1年くらい経てばそんなに難しくなく読むことができる。
『文盲』もこれ以上ないくらい切り詰めた文章だった。
それを考えると日本語翻訳には余計なキャラクター付けや先入観を持たせるようなニュアンスが削ぎ落としきれていないのをとても感じる
私が変わったのだと思う。
昔はこれに気づけなかった
もう日本の添加物の入った食べ物が臭って食べられないように
アパートメントを運営していて、そのうち自分が文章を書きたくなくなったのも、「たくさんの文章を読んでいるうちに自分が書くべきことがあるのか分からなくなってしまった」というのを理由にしていたけれど、もしかしたらこういう「嫌な臭い」に敏感になって、自分が書くときに少しでもそういう違和感があるのが嫌なのに、自分にはそれを乗り越えるだけの文章力がなかったというだけかもしれない
あと、自分が本当に感じていることを、伝わるように書くには(こういう「匂い」満載なネットの文章に慣れている自分も含めた多くの人の感覚を乗り越えるような文章を書くのは)自分にとってはとても簡単なことではなかった
やろうと思えばできたかもしれないけれど、すごく時間がかかる
ほんとうにすごく時間がかかるんだ
仏語で読むということは…
フランス語で読むと、まるでページを1ページずつめくるようにひとつずつ単語をめくってその文章に出会う。
時には知っている単語だと思いこんで文章を取り違えて解釈することもある。
一文を何度も読んで、しばらく読んでまた分からなくて3,4行戻ってまた読み返して、ひとつの文を何度も理解しようとする。
わからない単語は辞書を引けばおおよその意味は掴めるのだけれど、それでも何度引いてもうまくその言葉の像が浮かんでこないことも本当に多くて、いろんな場面でその用例に出会ってみて少しずつ「こいつはこんな感じの姿なのか」とぼんやり見えてくる。
もっと多くの用例に当たれたらいいのだけれどいかんせん読むのに時間がかかって…
まだ言葉がわからない赤ちゃんが、いろんな経験を通して少しずつその言葉を色付けしてゆくのに似ている。
おおよその単語が分かるような本は私にとって内容がちょっと退屈で読み続けるモチベーションを保ち続けられないので、内容にも興味のあるものをと思うとわからない単語が多く出てくるものになる。
全部単語を調べていたら読み終われないのでさっと読み流し内容をつかめたらいったんはそれで良しとして先に進んでみる。
わかったつもりでもどこかで引っかかったので後戻りしてみると、自分の読み方が取り違えたままだったことに気づいたりして、想像していた風景や物語を取り消して、もう一度注意深く読む。
ひとつ先の文章が目に入ってきて先の内容がわかってしまうということもないので、ひとつの文章を理解するたびに、物語が展開してゆく。
ゆっくりゆっくり。
そこに先程の自分の思い込みの風景がちょっと味付けで加わったりしているかもしれない。道草の功労なのか、弊害なのか。
一方日本語では
でももう私は日本語ではこういう読み方はできない。
子供の頃は、ゆっくり本を読みながら、わからない言葉やフレーズが出てきても、しばらく時間を置いてまた読んだら意味がわかった、というようなことがあった。
そんなふうにして数ヶ月、時には数年置いてから、自分がその言葉や内容を理解していることを実感したりした。
でも今はそんな風に、よくわからないからあちこちから眺めて想像して、いったん保留にしておいてそのうち「あれはああいうことだった」と分かるようなこと…いや、哲学的なこととかで無いわけではないけれど、単純な文章でそういう経験はもうしない。
時間をかける、他の例
すでに「できる」ことを疑ってなぞり直すのは難しい。
ダンスや音楽もそうだ。得意な動き、動いてしまう手を無批判に動かして「踊っている」と考えてしまう。手癖で弾いてしまう。
日本語だってさらりと読み飛ばしてしまう。
フランス語はまだわからないことが多いから自然と負荷がかかる。立ち止まらざるを得ない。だからそれをじっくりと見つめることになる。
写真はシャッターを押すだけで世界が写ってしまう。
でも絵はそうは行かない。自分が見て、書いたものしかそこに表現されない。
否応なく時間をかけさせられる。
立体はなおさらそうだ。
そのかかっている時間の中でしか、得られないものがある。
自分で意識的に負荷を与えたり、飛び込んでくるものを無邪気にうけとらず芯を見つめるようなことをできる人もいるかもしれないけれど、現代の生活様式のなかで本当の意味でそれを自分に課せるひとはそう多くない気がする。
生活の中の不便さとのこと
逆に昔の人はもう生活自体がすっとばせないものだらけだったから、だからああして作るものがなんでも良い質感なのかもしれない
体を使って、ものを見つめて試行錯誤して直して、はじめたことが今日明日では終わらなくて何年もかかったりして、そのあいだじゅうずっと、そのもののクセや重さに向き合う。そうしないと生活が成り立たないから。
でも今は違う。それは自分でやらないでもいい。
昔の人が当たり前にしていたことを、今は「日常でないもの」として体をつっこんでいるのがアーティストなのかも知れない。
簡単な現代とアート
でも今のアーティストは、手軽にアクセスできることから離れようとしないひとが多い
表現したもの自体、扱うもの自体がアクセスしやすい、軽い、ということを言っているのではない。
地の体や感覚が、時間をかけることでしか醸されない生生しさや、重たさや、丸み、毒を、知らないままであるというのが問題。
何でも表面的で幼い。
幼いもの、表面的なものを表現している、というのとはまた違う。
ただ見分けができていないが故にそこにとどまっている。